[BOOKS]愛と厳しさの匙加減 

『孤児の父フランケ』

 出版されてから10数年経ち、現在は古本でしか手に入らないようです。ほとんど忘れられたような本……。

 でも、私はこの本に出会って、フランケという教育者を知りました。ふとしたきっかけで読んだ本ですが、教育とは何なのか、子どもたちにまず何を教えなければならないのか、そのことを大人が考える際、有益な情報を与えてくれる教育の本(福祉の本というよりも)だと思いました。

 

 時代は17世紀後半から18世紀前半にかけてのドイツ(プロイセン)。イギリスやフランスと肩を並べる近代国家へと向かう途上の国にあって、孤児たちの学校を創設・運営した教育者・フランケ(アウグスト・ヘルマン・フランケ 1663〜1727年)がこの本の主人公です。

 フランケの思想の底にはキリスト教があります。ルターによって成し遂げられた宗教改革のあと、時間とともに形式化・儀式化したプロテスタント(正統ルター派)、その改革を彼(ならびに敬虔主義)は彼なりにめざしました。

 

 著者の伊藤さんが紹介するように、フランケは学者というよりも、理論と実践の両方を兼ね備えた教育者です。「何の財産ももたない私人」にすぎなかった彼が、地位社会の立ち遅れていた教育や福祉の仕組みを整備すべく、孤児たちをはじめ子どもたちが学び生活できる場をつくったのでした。

 

 1695年、孤児たちへの教育が開始されます。孤児とは、思慮深い大人になるべく導く大人がいない子どもであり、したがって身分や財産に関係なく教育が必要だ、そうフランケは考えたのでした。

 親のいない孤児を対象としたその貧民学校が好評を博すと、今度は市民の子どもたちを教える市民学校も始まります。大学進学者を対象としたラテン語学校、寄宿学校、教員養成所なども次々と生まれます。

 

 フランケの言葉を手がかりに、伊藤さんが学習の目的に触れた文章です。

 

「次にフランケが教師に求めていることは、教育の基本に属するにもかかわらず、今の世の中で一番ないがしろにされていることの一つである、善と悪の区別である。彼は、『教師が子供たちに善と悪とを色あざやかに、よどみなく話して聞かせることができれば、たいへん有益である』という。そうすることによって、子供たちは善への愛にめざめ、悪から遠ざかるからである」(175ページ)

 

 「そして子供たちは次に再び文字を読むまで、黙って坐って待つよう、命令される。静かに待つ習慣をつけさせるのも、授業目的の一つなのである」(203ページ)

 

 教え導かなければならない子どもを見る確かな視点が紹介されていると感じました。

 

 また、伊藤さんによれば、子どもたちが大声を出し騒いで授業が妨げられそうになった時の具体的な指導の仕方について、フランケは周りに次のように説明したそうです。フランケ自身の言葉です。

 

 「授業の始めに子供たちがそうぞうしかったり、授業の最中に騒いだりしたとき、教員は、静かにさせようと思って、大きな声をあげたり叫んだり、また腹を立てて子供たちを叩いたりしないで、自分が黙って静かにしていればいい。なぜならば、教員が子供たちに向かって大声で叫べば叫ぶほど、子供たちはますます騒ぐからである。しかし教員が黙ったまま静かに子供たちを注視し、そして穏やかに、『まだ誰かがぺちゃくちゃおしゃべりして騒いでいるのが聴こえる。どの子か、よく見ておくからね』、というようなぐあいに言うと、子供たちはみんなすぐ静かになって、落ちついて坐っているようになる。それから授業を始めれば、あるいは授業を続ければいい」(212ページ)

 

 「私は叱りません」という小学校教師の言い分がなにか人間的な行為のように認められてしまういま、フランケが実践したような、簡単なこと当たり前のことを冷静に実行する教師がどれだけいるかなと思います。そもそも授業中に一人ひとりの子どもを「注視」している教師がどれほどいるでしょうか。

 現代の教育は、子どもへの接し方について思い違いを引きずっているのではないでしょうか。

 

 「子供たちの教育においては時宜をえない愛と時宜をえない厳しさが、同じように害をもたらすものである」、これがフランケの言葉です。

 時宜を得た愛と厳しさこそ、教育の原点だというのです。

 

(知覧俊郎)


■本の紹介

『孤児の父フランケ 愛の福祉と教育の原点』 伊藤利男著 鳥影社 2000年10月発行